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VI. 研究調査を終えて
群馬県衛生公害研究所長 氏家淳雄
インフルエンザワクチンの効果については論説百出し,百花繚乱の様である。
厚生省を始め実施側の論は,ワクチン以外に感染防禦するものがないということに止まり,原点であった小・中学生の集団接種方策が流行阻止効果を示し,ひいては老人や病症者,いわゆるハイリスク層における感染率の低下につながる効果については触れようとしていない。
反対者側の論としても,ワクチンを受けても風邪様疾患にかかることより効果がないというような簡単なるものが多い。
どちらもワクチンを受けた者がインフルエンザに患かるか否かという個人防禦効果に止まる論である。
私自身,現行ワクチンの効果を多少なりとも認めているが,他のワクチンと異なり効果が悪く,ときに抗原構造の大きく異なるものが流行すれば,ワクチンの効果は殆どないともいえる。
しかし,私達が問題視してきたことは,かかる論点ではなく,ワクチン接種方策に係わる行政のあり方およびそれに関連しての調査研究のあり方を論じていることを銘記して欲しい。
小・中学生に集団接種を始めた約25年前(1962)の趣旨はインフルエンザ流行を増幅する年齢層である小・中学生に集団接種をして流行を阻止するという水際作戦である。
従って,流行が阻止される前提を絶対視し,感染したら死亡あるいは病症が重篤化すると思われるハイリスク層の人々の予防を考慮していない。
考えようではあるが,ハイリスクの人々を感染から守るために,感染しても心配ない小・中学生を対象として,毎年,予防接種をしていることになる。
いわゆる,小・中学生を防波堤にしている論旨である。
しかし,現実には毎年渡り鳥のように必らず流行が見られている。
ときには成人層の流行が先行しているようにも感じられる。
小・中学生は全人口の7分の1にすぎず,また,小・中学生のみが集団生活をしているわけではなく,多くの成人も現社会では,満員電車などで通勤し,職場では当然のことながら集団で勤務している。
更に,出張などで国内を回遊しているのは成人たちで,それぞれの地区における初発感染源者は成人であって,小・中学生ではない。
従って,強力な効果のあるワクチンが開発されても,小・中学生のみの接種で流行を阻止することは不可能である。
毎年,流行している現状より容易に推察できることと思う。
前橋市医師会の研究会が主張することは,ワクチン行政の流行阻止効果のことであってワクチンの感染防禦効果の良否ではない。
日本だけがかかる集団接種方式を実施し,ハイリスクの人々には予防方策をしていない。
もっとも,ハイリスクの人でも希望すればワクチン接種を受けることは出来るが,医師側からみれば,ハイリスクの人であるだけに副反応が頻発することが心配であること,このときには医師自身の責任となることより,かゝる任意接種をひき受ける医師が少なく,結局のところ,ハイリスクの人々は予防接種を受けることなく放置されている現状である。
しかも,ある程度の症状があれば,日本では禁忌となり,ワクチン接種が出来ない。
外国では集団接種方式を採用していないが,任意に病人や老人には接種をすゝめている。このことに関し,日本との違いを述べると,米のCDC(Center for Disease Control)が1980年に提案している内容は:
以下のものにはインフルエンザワクチンの接種を勧告している。
- 先天性および後天性心不全症
- 慢性の肺機能不全症
- 慢性腎疾患
- 感染し易くなっている糖尿病及び代謝病
- 慢性の重症貧血
- 悪性腫瘍患者のような免疫不全症及び免疫抑制剤による治療をうけているもの
- その他,65歳以上の老人,社会的に必要な業務従事者で感染曝露の危険が多い人
フランスのパスツール研究所のHannounによると;
年齢的因子として,45歳以上,特に65歳以上の高齢者をハイリスク層としている。
- 医学的リスクとして,心血管疾患,気管支肺疾患,腎疾患(腎炎,ネフローゼ,腎の感染症,血液透析患者,腎移植患者など),代謝異常(糖尿病,アジソン病),その他として妊婦など。
- 社会的,経済的リスクとして,感染に曝露され,しかも社会的あるいは経済的生活に必須の職業人で,医師およびパラメディカルスタッフおよび輸送,郵便,通信業務に携る人たち。
オランダのMarcus, E. A.らは次の疾患をもつ患者をワクチン接種対象のハイリスク群としている:慢性心肺疾患,呼吸障害を来す神経疾患,慢性腎疾患,慢性代謝疾患,反復するセツおよび,その他のブドウ球菌感染症,すべての衰弱した状態。
外国のことは,この程度にとめて日本をながめると,わが国では適応のことでなく禁忌の方が先走っている。
すなわち,心臓血管系疾患,腎臓疾患および肝臓疾患の患者で当該疾患が急性期もしくは増悪期,または活動期にあるもの,妊娠しているもの,その他,予防接種を行うことが不適当な状態にある者である。
以上のように禁忌が多すぎると,副反応が生じたときの補償のこともあることより,ハイリスクの人々にワクチン接種することは,例外的適応となる。
同じように医学の進んでいる文明諸国間で日本だけが,諸国と正反対とも思われる適応になっている。
しかし,日本以外の国々で,かかるハイリスク群を対象としての副反応禍を特に聞いていない。日本の方式はハイリスク群での副反応を過重視して本筋を誤っているように考えられるが,補償天国であることを加味すれば,理解されるようでもある。
日本が特殊なるインフルエンザ予防方策をしているので,数年前にアメリカから,小・中学生の集団接種による効果を査定するために来日している。
前橋市がワクチン中止に踏み切った頃であるが,CDCやNIHから専門家が来て,厚生省および予防グループが対応している。
その後,査定の論説が発表されている。
(Walter R. Dowdle, J. Donald Miller, Lawrence B. Schonberger, Francis A. Ennis, and John R. LaMontagne. Influenza Immunization Politics and Practics in Japan. J. Infect. Dis. 1980; 141: 258-264)
これ以上の批判はないような批判に満ちて論じているが,そのなかで対照のないままに効果を論じても仕様のないことを述べている。ここに結論を訳して記したいと思う。
日本では空想的効能の概念で学童のインフルエンザ免疫事業を毎年実施して来た。
この事業の副産物として,日本政府は他国にも参考となるような国内における学校流行病に関するサーベィランス・システムを組織化している。
また,ワクチン接種による不運なる反応を示した個人に対する補償のため,遠大なる方策を発展させている。
ワクチン株が流行株と同じならインフルエンザ様疾患が50〜95%も減少したという特別な調査からワクチン接種を支持している。
毎年,流行がくりかえすのは,抗原の変わりや型の転換,ワクチン製造のためのさけられない月日を要することに帰している。
学校や諸団体で,ワクチンの効果が変動することや毎年の流行が起こることは予期出来ることで,そのことで効果のあるワクチン接種を止める必要はないとしている。
しかし,そのようなワクチン接種をしていない状況でインフルエンザ流行のパターンがどのようになるのかは知っていない。
従って,伝染,罹病,死亡に関するワクチンの効果を正確に推定することは出来ない。
学童の集団接種の効果は,劇的な効めではないが,統計的に有意であるというが,吾々には判断するための基礎データをもっていない。
インフルエンザ流行に対する抑制的効果を証明するむずかしさは,価値ある,推挙し得る,それに広く是認された,インフルエンザに関する対照地区での調査のなかで,普遍的に経験した諸問題を明らかにすることである。
アメリカでは,ワクチン接種をすすめているハイリスクの人々におけるインフルエンザワクチン接種の客観的評価は論理的判断から除外している。
対照とする試みがないので,ハイリスクの人々のワクチン接種は,他のポプュレーションでの短期間の試みで感染防禦効果を確かめてからすすめている。
しかし,毎年の接種でインフルエンザによる死亡を有意に減少させた証明はない。
米国でも同じ学童接種のプログラムはあるが,日本の実施していることには多くの疑問がある。米国での接種率が日本よりも高くはないようであるが,仮に吾々が日本のようにしても,そのようなプログラムによる好影響を確実に予想することは出来ない。
学童や成人に対する毎年の接種プログラムの良否を考察するには,注意ぶかい長期の研究が必要である。
インフルエンザ感染や死亡の減少についての効果に関する成績が不足しているので,理に合ったプログラムと期待し得ることや,正確にプログラムの成果を評価することはむずかしい。
以上のような結論であるが,日本のインフルエンザ研究者が前橋市を貴重なる対照地区と認めていることが了解されると思う。
前橋市がワクチンの集団接種を中止する前に安中市を含む碓氷郡では,効果に関しての疑問および副反応のことより,既に中止し,今日に到っているが,特別なる流行拡大は見られていない。
安中市の中止とは直接に関係はないようであるが,前橋市が中止する数年前から数人の医師によりワクチンの効果が論じられていたが,主として個人防禦効果に関することであった。
本文に述べられたような理由により,とにかく,前橋市は中止することになった。
県伝染病予防対策委員会の会長は県医師会長であるが,その頃より会の最後にインフルエンザの予防接種を実施する,しないは各郡市医師会に任せることを発言している。
当時の前橋市医師会の担当理事は「この問題は群市医師会の判断にまかせる」との決定について感激している。この理解ある態度がその後の発展に大きな力を与えたと当時をふりかえっている。
前橋市医師会は単に中止するだけでなく,その中止がその後の流行にどのような影響を与えるかについての研究調査を企画した。
私も従来からの交わりもあり,研究会のメンバーとして,そのことに参画した。
本文にあるように,適当な地域配置を考慮して,5小学校をえらび血清疫学調査指定校とし,各校とも1981年度の2年生を対象として(総計約600人),小学校を卒業するまでの5年間に亘り,同一人から年2回(11月,5月)採血し,主にHI抗体価を測り,症状だけに頼らず,抗体価上昇も考慮して感染の有無を確め,流行調査に資する計画を立てた。
県医師会でもその方針に同調し,約半数の群市医師会が県医師会に呼応して調査に参画した。
夫々の対象は40名という少数であるが,前橋市医師会と同様の方法で調査を開始した。
然し,対象が40名という少数であること,夫々で中心となるべき研究会のないことより,段々と尻つぼみになっているが,とにかく,現在その調査結果のまとめにかかっている。初期の計画通りなら興味ある成果が期待されると思っている。
県医師会が予防ワクチンを実施する地区と実施しない地区とに分けて調査を実施したことは当時において,画期的な試みといえる。
当然のことながら,前橋市および県医師会より血清抗体の検査が私に依頼された。
県医師会が両面をもっていることは,県医師会の幹部の人々が先見性のある,職見の高いことを感じ,県医師会の方針に従って私としても喜んで引受けた。
しかし,特別なる予算もないことより,非公式の依頼と解釈し,私達の調査研究の一部として実施することにした。
もっとも,前橋市医師会の正しさを求める熱情にほだされたことも本当である。
調査してゆくうちに,なんとなく解って来たことであるが,県医師会の方針は原則的に予防接種をするというのが本意らしく,前橋市医師会の強い中止方針を翻意させることが出来ず,止むなく両面をもったというのが本当らしい。
しかし,両面をもった経緯は別として,現実的に両面をもっていることが,私としては応援し易いし,考え方によっては両面の夫々で,いずれが正しいかを競い合い,夫々の成果を自由に発表しうることになり,大きな進展を予期出来るからであった。
前橋市医師会が今日の成果を得た一つの大きな背景として,県医師会が曲りなりにも両面をもったことに起因している。
とにかく,前橋市医師会の研究会メンバーの熱心さは,今日でも定期的に夜7時半より研究会を続けている。
医師会は,労働組合の如きものと異なり,常に学問が先行して,事業を実施する団体で,新らしい真理がわかれば,それに合ったように事業を更新するべきという本質を有している。
研究会メンバーが,かかる本質を有していることが,私の考えと共鳴し,全力をあげて支援して来た。
日本医師会長であった武見太郎会長は,私が慶応大学医学部で研究していたこともあってか,尊敬してきた一人である。
毎年,元旦には医学部講堂で話をすることが恒例であったが,楽しみにしながら歯切れの良い話を開いていた。
尊敬していた点は,必らず正しい理論をもってから実行したことである。
更に,忘れられないことは,トヨタの助成金を得たことである。
600人から5年間に亘り血液を採取することは,いうは易しいが,なかなかに難しいことで,多くは不可能に近い。
トヨタ財団という,名の知れた,信頼感のあるトヨタの助成金を得たことは,もっとも気を使う人達に,例えば,学校の校長および担任の先生方,父兄の方々,市の職員の方々に,前橋市医師会の調査研究が正しいものであることを意識づけることになり,その後までも調査が容易になり,計りしれぬ恩恵をうけた。
前橋市医師会の研究会が第2回研究コンクール“身近な環境をみつめよう”に助成を申請したとき,私が審査員であった。
審査員の方々は各部門から選ばれ,医師は私だけであったため,インフルエンザワクチンに関することは,他の人々には理解しがたい内容で,少し強引とも思われる発言で,落選したものを,Aランクに入れることは出来なかったが,Bランクに入れて貰った。
Bランクでも,トヨタ財団の助成をうけられたことは,恰も錦の御旗を得た如き,極めて大きな背景を与えてくれた。
今になって考えれば,数多きトヨタ財団の助成研究のうち,前橋市医師会の研究成果は白眉のものと私なりに自負している。
ここに,更めてトヨタ財団に心より感謝の意を表す次第です。
研究会といっても,基礎医学的に非専門家である開業医だけの集りでは,統計的に調査することが難しいこともあって,私を始めとして,必要に応じて協力者を加え,まとまりをつけて来た。また,実施上のことも配慮して,前橋保健所の予防課長,県教育委員会の学校保健課長も参画している。
例えば,昨年10月及び11月に私が福岡におけるウイルス学会と仙台での公衆衛生学会で,B型インフルエンザ感染および流行に関する成績を発表したが,その主旨を簡略にのべると,学校を単位とした欠席率から学校毎の流行期間を決め,インフルエンザ欠席者を撰び出し,ワクチンの効果をみると,弱いながらワクチンの効果をみることが出来た。
しかし,ワクチン接種地区と前橋市および碓氷郡の非接種地区を比較すると小・中学校における,かかる方法で撰び出した感染率に大差が見られなかった。
B型インフルエンザ感染での比較であったが,6年以上も非接種を続けると,その間に3回及至2回のB型流行に曝露されている。
その度毎に免疫が付加された事実を示し,ワクチン接種と同様な免疫を得たためであろうと説明した。逆に考えれば,ワクチンを中止すれば,当然のことながら患者数は増える。しかし,中止を続け,6年もたつとワクチン接種地区と同じ程度の患者発生になったということである。
また,全人口の7分の1だけの人口層である小・中学生の接種だけでは流行を阻止出来ないことより,集団接種の是非とは関係なく,ハイリスクの人々に対する予防を考えるべきと強調した。
このとき利用したのは県教育委員会と私のところでの調査結果である。
また,超過死亡などの統計は公衆衛生院の協力で得られたもので,前橋市医師会の成績ではない。
しかし,真実を求めることが第一と考え,研究会を拡大視し,お互に利用しうるものは利用するという協力体制をとっている。
このような細部に亘ると,夫々の担当での研究に分かれるが,それらのなかで様々な努力あるいは苦労もあったろうが,相も変わらずの熱心さで5年以上も非接種を維持してきたことが,その規模において世界に誇りうるフィールドを残すことが出来た。
今後,この貴重なフィールドを利用して,インフルエンザに関する様々なる成績が生れてくることが期待される。
今回のまとめは,中間報告と考えるべきで,紙面にのらないものは,時とともに発表されていくと思うが,トヨタ財団のみでなく,多くの方々の理解がますます深くなることを望みます。
なお,この報告と係わりなく,ワクチンの効果を信じ,中止後の患者増加を心配して,従来の接種方策を実施するのも良し,長期間中止すれば同じようになると信じて中止するも良しと思っている。この時点で,私がもっとも気にかかることは老人社会に進んでいる今日,ハイリスクを対象とした任意接種が出来るポリシイが必要と思う。なお,学童への集団接種は流行を阻止するという理で実施するのではなく,学童を感染から防ぐという個人防衛論で実施すべきである。
今後,強力な生あるいは不活化ワクチンの開発も進め,投与方法の検討をしていくべきである。
ハイリスクの人々,特に寝たきり老人は免疫不全を示すことが多い。
このような老人の予防方策となれば,不活化ワクチンを接種しても抗体産生が期待出来ず,適当な生ワクチンあるいは化学製剤の開発が考えられてくる。
今後の問題であるが,ハイリスクとインフルエンザ感染,成人層におけるインフルエンザ流行疫学,HI抗体価保有の意義などを考えている。
成人層が流行の増幅に関与している状況を知ること,HI抗体価が高くてもウイルスが分離されることより,症状緩和の効果はあっても,粘膜面での増殖がどの程度に抑えられるのか,抑えられないのかの問題である。
いずれにしても,この貴重なるフィールドを有する研究会が,これからも熱心なる研究を続けてゆくことを祈り,擱筆する次第です。
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