III.われわれの見解
5.インフルエンザワクチンによる社会防衛

インフルエンザの罹患率の高いのは学童期であるが,インフルエンザによって重篤になるのは,乳幼児と老人に限られている。健康学童にワクチンを接種する日本の戦略は,学校に於ける流行を抑えて社会へのインフルエンザ伝播を防止し,以てハイリスクグループを守ることにある。果たして,この戦略が可能であろうか。これが,われわれの最大の関心事である。

こういう戦略に立って学童に集団接種を強制する以上,この可能性についての研究がなければならない筈であるが,残念ながら,日本にそのデータはない。

1979年,米国の調査団が来日し,日本のワクチンポリシー及び流行状況を詳しく調査した。その結果,(1)日本のワクチンプログラムが,インフルエンザの伝播,罹患率,および死亡率にどのような影響を与えるか,明らかではない。(2)日本のようなプログラムを,実行することが可能だとしても,それによって良い結果が出ると予測することは困難である。と結論している。

一方,Montoらは,ミシガン州のTecumsehCity(人口7500)で学童にAホンコン型ワクチンを接種し,間もなく襲ったAホンコン型流行に於いて,市民の呼吸疾患を調査した。その結果,隣接のAdrianCityに比較して,呼吸器疾患の増加率が1/3に抑えられた。しかし,2ケ月後に流行したB型インフルエンザでは両市の間に差がなかったという。

日本のポリシーが日本で証明されず,米国で根拠を得るというのも皮肉なことであるが,Montoらの研究は良く計画されたので,高く評価されるべきものであろう。ただし,この成績を直ちに日本に当てはめるには,幾つかの問題がある。その一つは,この実験がホンコン型が出現した直後の1968〜1969冬の流行であり,流行するウイルスを予測出来,したがって,型が完全に一致したことである。これは,滅多にないチャンスをとらえた実験であって,「例年」の流行に対する「毎年」の接種を代表することは出来ない。しかも,ワクチン接種初年度の成績であるから,継続して観察すれば,Hoskinsのような結果に終わる可能性も残されているのである。

もう一つは,これが,田舎の小集落での実験であることである。日本のように人口密集し,交通の激しい国と実情が余りにかけ離れていることに注意しなくてはならない。

日本においては,インフルエンザは,全国一斉に流行する。これを「学童による伝播」で説明し得ないことは明白であろう。

園口らは,1976年ホンコン型流行を熊本県下で調査した際,感染児童の家族105名を調査し,うち28名(27%)が学童より早い発病であったことを見た。また,ウイルスも分離された。このことから,「本県では正月休みに流行地からの帰省者がウイルスを持ち帰り,家族に感染させ,県下の広地域に潜在流行を起こしていたことが考えられる。冬休みあけの開校と同時に,家庭で感染した複数の学童の感染源が,一つの学校に持ち込まれたため,同校に集団発生をおこした。同様のことが,県下各地でおこったことが,短期間に集団発生の多発をおこしたものであろう。」と結論している。園口部長は永年の経験の中で,この様なことはなかったと述べておられるから,これが,近年の日本の社会情勢の反映と見ることが出来るかもしれない。

いずれにせよ,学童へのインフルエンザ不活化ワクチン集団接種によってハイリスクグループを守り得ると言う保証は得難い。集団接種を正当化する根拠として,ワクチンの症状軽減効果を挙げる人があるが,これは問題のすり変に過ぎない。

インフルエンザワクチン集団接種にとって問題なのは,実の所,感染でも罹患でもない。ワクチンを注射した児童が,ウイルス排出を止めるか否かである。これについて,現在の所,明確な答えはない。大山らは,1978年H3N2型について,ワクチン接種群22例中9例から,そして,非接種22例中11例からウイルスを分離した。また,菅谷らは,1983年H3N2型流行について,学童及び幼児について調査し,学童8例,幼児11例のウイルス分離陽性例を得た。このうち,学童3例,幼児2例はワクチン既接種者であったという。

これらのことから,感染防禦,罹患防禦等の効果と,流行阻止効果とは区別して考えなくてはならないことが知れよう。学童にワクチンを接種することで,ハイリスクグループを防衛するというポリシーは,多分に哲学的で,科学的根拠を欠いているように思われる。

われわれは,ワクチン集団接種を止めてから5年間,調査を続けてきたが,ワクチン中止により,前橋市でインフルエンザ患者数,流行期医療費,超過死亡,学童罹患率の指標すべてにおいて,流行激化の徴候を認めなかった。また,学童の欠席曲線を検討すると,全国の流行が大きい時は前橋市の流行も大きく,全国の流行が早く始まる年には前橋もまた早く始まるという具合で,流行の規模も,パターンも,時期も,全国と並行していた(II−3−A参照)。小地域の観察ではあるが,ワクチンを止めても,さしたる変化はないと考えてよいと思われる。ワクチンによって「守られている」という思い込みを捨てて,虚心にワクチンの社会防衛機能を測定するべきであろう。


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