現代の常識はあまりにも対症療法的だと思います。緊急を要しない軽症例であっても、症状(苦痛)を軽減するという目先のテーマが重視されすぎて、不自然が多すぎると考えています。症状とは、体の壊れた結果としてでているものばかりではありません。症状の肯定的な意味を考えると次の3つになると思います。1 ブレーカーとしての症状疲労などによって無理が累積したときに、それ以上無理をさせないために、痛みなどの症状が起こる。これは局所にとっては故障かもしれないが、全体性からみればブレーカが働いた構図と考えることができる。2 防御反応としての症状発熱などを例として考えると、それは免疫を活性化させ、細菌の増殖を抑制し、感染症から体を防御するために起こる。3 回復反応としての症状打撲や骨折のあとに炎症などが一例として考えると、それは損傷を受けた場所の回復が活性化するために起こる。喘息の発作は、もちろん重症例では速やかな医学的処置が必要です。しかし、薬を使うほどでもなく、家庭で対応しているレベルであれば、この肯定的症状という考え方を知っていただくことで、その後の捉え方がかわってくると実感しています。私の経験からの話です。小児喘息の子供に東洋医学的な治療(鍼灸など)をおこなうと、その晩に喘息発作を起こす例がよくあります。親とすれば、治すために治療をうけたのに、治療をうけると発作が起こるとは心外だといわれます。しかしそれは、喘息という病気を喘息発作というものに置き換えてみているからであり、症状がでなければ、良好な状態と勝手に思い込んでいるからですね。現実には、喘息発作がおきていなくても、喘息発作をおこす体ならば、なにも違いはありません。今まさに、発作を起こしている体も、今は発作を起こしていないからだもイコールなのです。治療をして、そのあと発作が起こるというようなことを何度が繰り返してゆくと、やがて次第に治療をした晩も発作がでなくなってきます。こうなってくると日常的な発作も減ってくる。結果的に、喘息発作を抑制するよりも、喘息発作をひきだしたほうが、体そのものが変化してくる感じです。そのような経過の例を何度も経験すると、喘息が必要だから喘息が起こっていたのではないかという、喘息症状の肯定的意味を考えずにはいられません。ここに書いたことは一つの考え方です。とても受け入れならない違和感のある考え方と思う方も多いでしょう。しかし重要なことは、同じ現実に向かい合うなら、どのように考えたら、今までよりも楽になれるかということにあると思います。喘息のあとは「しんどい」と思うのと、これで少し「変ってくるのかなあ」と思えるのでは、どちらが有利なのか。私の関心は、常にそういう方向に向いています。