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3. 成績

A. 小学校の欠席率によって見た市内インフルエンザ流行状況

1) 方法

前章において述べた「毎日欠席者数調べ」と「学級閉鎖状況調査」をもとにまとめ,「群馬県医師会インフルエンザ様疾患サーべイランス報告」と「厚生省防疫情報及び全国インフルエンザ様疾患週別発生曲線」を比較に用いた。

2) 調査成績

(i) 欠席率による流行曲線

〔図2〕は,1980年度〜1985年度,すなわち1981年1月から1985年12月に至る約5年間に認められた七つの流行について,市内全小学校の欠席率の推移を曲線に描いたものである。
経験的に,欠席率2%以上の日が3日以上にわたって続き,かつ次第に上昇する傾向にある時,何等かの伝染性疾患の流行が疑われた。欠席率2%以下の期間内に流行は無く,2%は「流行の無い期間の平均欠席率+標準偏差の2倍」を僅かに上回る値である。そして欠席率が5%を越えるような場合には,ほとんどインフルエンザと断定して間違い無かった。(もちろん,流行が一部の学校に限られているような場合には,市全体として見る時に必ずしもこの基準は当てはまらない。)

言うまでもなく,ここに言う欠席率が,すべてインフルエンザ患者によるものではないことは明らかである。とは言え,欠席率曲線が高い山型の曲線を描く期間において,欠席者の多くは,臨床的に見てインフルエンザであり(HI抗体価変動から見れば,ざっと6割と言えるが,この点については後で述べる),従ってこの曲線が,インフルエンザの「流行曲線」と見てよいと考えられるので,以後「流行曲線」と呼ぶ。

各期流行の流行ウイルス株は,曲線ピークの右肩に示した。

図上,2%のところに引かれた横線は,これと欠席率曲線との交点により,流行期間を決定することができることを示したものである。

12月と1月の境に引かれた縦線は,年の変わり目を示す。その前後1週間は冬休みであり,曲線はその部分で不連続になっている。

なお,図上に,毎日学級閉鎖数を棒グラフにより重ねて示した。ただし,欠席率と学級閉鎖数のグラフの高さの関係は,まったく便宜的なものであり,人数比にしておよそ1:1.5である。ここではむしろ,流行のパターンを比べる時の,指標としての価値を見ることに重点を置いている。

さて,図示した各欠席率曲線は,市内小学校36〜39校,総在籍数約26,000人を対象としたものである。故に,これらの曲線は,各小学校の多様な流行時期,期間,パターンを示す欠席率曲線の合成から成ると考えた方がよいであろう。従って,例えば,図上の曲線が流行期間の短い高いピークを持つ山型を示す時は,市内小学校において一斉に流行が発生したことを意味する。逆に,流行期間の長いなだらかな,あるいは幾つかの低いピークを持つ曲線を示す時は,各小学校の流行が同様な傾向を示したか,あるいはむしろ流行発生の時期にかなりの時間差があったということを意味する,と見るべきものである。

以上のことを前置きとして,図について各年度の流行状況の特徴を記すと,まず1981年のAH1N1型流行(Aソ連型),1982年のB型流行,1983年のAH3N2型(A香港型)は,いずれもピークを中心としてほぼ対照的な山型の曲線を描き,流行曲線のモデルとも言えるパターンを示す。

1982年3月のAH3N2型の小流行は,インフルエンザHI抗体価検査指定校(以下単に指定校と呼ぶ)5校におけるHI抗体価検査により,この時期に5校中2校にAH3N2型の流行があったことが判明したものであり,市内全小学校については,欠席率曲線の検討から,37校中14校に流行があったと考えられたものである。図上の曲線は,14校をまとめて描いてある。

1983年12月に始まるAH1N1型の流行は,冬休みを越えて,だらだらと高原状に1984年3月まで続いている。1月の末にピークらしいものがあるが,最高欠席率は5%にも至らなかった。当時の,医療機関からの報告によれば,必ずしもインフルエンザ様疾患は多くはなく,流行性嘔吐症との混合流行の状態であった。各校別の流行曲線は,流行時期に大きなばらつきがあり,おしなべてピークは低く,インフルエンザの流行は2月中旬にはおおむね終焉したのではないかと考えられる。このような流行では,欠席率2%を基準とした流行期間の決定は不可能である。この冬は平均気温は例年よりやや低かったが,降雪日が例年になく多く,湿度の高い日が多かったのが特徴であった。流行が比較的小さかったのは,これが一つの要因になっている可能性を否定できない。

1985年のB型流行曲線パターンの特徴は,欠席率の急激な上昇と,高いピークと,そして急速な欠席率の低下であり,流行期間も短いことであった。まさに爆発的な流行経過と言うべきであろう。

さらに1985年は,11月の中旬から早くも流行が始まった。流行株はAH3N2型であった。この流行は12月10日頃にピークを迎えているが,流行曲線の下降脚は,上降脚とは非対称的に,冬休みの直前で頓挫的に終焉している。年が明けてから,七,八校に欠席率2%以上を示す何等かの流行のあることが分かっているが,それがインフルエンザであるかどうかは,今のところ不明である。いずれにせよ,欠席率による流行曲線は,冬休みの影響を大きく受けることは確かである。

最後に,流行曲線を全体として見るとき,各年度の主流行は,AH1N1型,B型,AH3N2型の流行を,その順序で2回繰り返したことになった。しかも,流行の開始時期は年を追って早まり,観察期間の最後の年である1985年度には,冬休みを跳び越して11月から流行が始まった。もちろん,これは一般化することのできない性質の問題とは考えるが,現象的には興味のあることであった。

閑話休題,前橋市では,毎年1月9日に初市として有名な「ダルマ市」が開かれる。この日はたいがいひどく寒い日で,名物の「空っかぜ」が吹きすさぶ中,一日で約40万人の人出があると言われる。優に市の人口の1.5倍に相当する。近在から集う人々は肩を擦り合って,ダルマ売りの呼び声の飛び交う中で,行くにも帰るにも人の流れに任せる外はない,といった混雑の巷となる。小学生とて例外ではなく,放課を待ち兼ねたように初市へと駆け付ける。事後,多くの学校で,感想文や図画の課題が出されると聞けば,学校はむしろ初市に出掛けることを奨励しているのであろう。そこで1984年度迄は,班会議の席上しばしば「初市こそインフルエンザの増幅装置である。小学生の参加を禁止するべきではないか」と言った意見が出たりしたものであった。ともあれ,ある条件下で,市内流行に一役買っているであろうことは,想像に難くない。

話を元に戻して,図上,毎日学級閉鎖数のグラフは,流行規模を示す相対的な指標としては,欠席率曲線とかなり平行していることは窺われる。しかし,欠席率を基準にして見れば,流行が大きいと,異常に学級閉鎖数は多くなり,流行が小さいと無くなってしまう,というような傾向が認められる。従って,これによって流行規模やパターンについて云々することは,はなはだ誤差が大きいと言わなければならない。もちろん,これによって流行期間の決定もできない。

(ii) 1980年度学級閉鎖状況調査

本調査は,小学校を対象に,1981年1月〜3月AH1N1型流行期間中に行ったものである。調査の目的は,次項に述べる欠席者数を算定するにあたって,学級閉鎖中の欠席者数推定の根拠を求めるためのものである。合わせて,前橋市における学級閉鎖の実態をつかむことも目的の一つであった。

調査結果は〔表5〕に示した。総閉鎖学級数は106学級であり,閉鎖日数では,3日がもっとも多く51学級(48.1%)であった。次いで5日,4日の順で,それぞれ20%前後であった。平均閉鎖日数は3.9日,ざっと4日である。

一学級当たりの平均在籍数は37.7人,約38となる。

学級閉鎖前日の平均欠席児童数は9.5人,平均在籍数の25.2%であった。また,閉鎖解除日の平均欠席児童数は3.4人,平均在籍数の9.0%であった。

前橋市においては,インフルエンザ流行期にあっては,学級欠席率が20%を越えたら5日以上の学級閉鎖をするように指導されているが,これらの数値から見る限りにおいて,実状は25%で4日であることが分かった。そしてこの表の数値から見る限り,4日以上学級閉鎖をすれば,欠席者を80%近く減らすことができたという点で,有効であったということである。

しかし,その後の調査により,これらの数値だけでは学級閉鎖の有効性を決めるわけにはいかないことが分かっており,班会議においてもその後しばしば議論が出ているが,この問題については,改めて調査計画を立てる必要があるという点で意見は一致している。

さて,以上の数値から,学級閉鎖中の延欠席者数の推定値として,単純に次式:(9.5+3.4)×3.9÷2=25.2(人)から,一学級閉鎖当たり延ベ25人とした。その後,前橋市内小学校における学級閉鎖の基準は変えられていないし,学校医から見るところ,実態に大きな変化はないので,5年間を通してこの数値を用いることとした。

実際には,各流行により多少の差はあるであろうし,アンケートにより閉鎖中の罹患状況を調べれば,より正確な数値が得られるとは考えられるが,それによる多少の差は,母数の大きさから見て推定値に大きな影響を与えることはないと考える。

(iii) 数値によって見た流行状況の比較

〔表6〕は,流行日数や欠席状況を示す二三の数値を指標として,各年度の流行状況を比較したものである。1981年度のB型とAH3N2型の二つの流行については,互いに連続し,一部は重なり合っているので,まとめて一つの流行として数値を示した。

流行期間および日数は,既述のごとく,欠席率2%以上の部分によって決めた。

延欠席児童数には,学級閉鎖により休んでいる者は含まれていない。

平均欠席率の算出は,前項において述べた通り,1学級閉鎖当たりの推定延欠席児童数を25人として,これに学級閉鎖数を掛けて得た値を延欠席児童数に加えてこれを分子とし,総在籍児童数に登校日数を掛けたものを分母として割り,%で示した。

この計算に用いた学級閉鎖数は,市教育委員会による「学級閉鎖状況調査」による。学級閉鎖数は,学校閉鎖数を含めて,〔表7〕に示した。

最高欠席率は,その日の欠席者数を,総在籍児童数から学級閉鎖により欠席していた人数を引いた数で割って求めた。

推定延欠席児童件数は,下記の式により算定した。


(延欠席児童数+学級閉鎖数×25)/(児童欠席1件当たりの平均欠日数:2.5日)

上式の分母に用いた2.5日は,指定校における「個人別欠席調査」から求めたものである。なお,ここに言う欠席件数とは,欠席日数には関係なく,流行期間内の1日以上の一連の欠席を1回と数えて,これを集計したものである。従って,一人の児童が2回以上欠席した場合には,その回数がすべて含まれる。また,すべての欠席がインフルエンザによるものではないことも,言うまでもない。

ただしここで,1983年度のAH1N1型流行に関する値は,補正を要するであろう。なぜならば,既述のごとく,この時のインフルエンザ流行は,遅くとも2月中旬には終焉していたと見られるからである。そうだとすれば,推定延欠席件数は約16%減少する。さらに,指定校におけるHI抗体価検査成績から,最高欠席率が5%を越えるような流行では,感染者は欠席者の約60%を占めるが,この時の流行では,せいぜい40%程度と見られたことから,これを60%程度とするべく補正するとすれば,推定延欠席件数は13,500人となり,臨床的感覚とかなり一致してくる。表中では( )内に示した。

以上は,先に述べた欠席率による流行曲線を,数値を指標として示すとすればどうなるか,についての一つの試みである。これによって,国や県,あるいは前橋市以外の地域の指標と比較することが容易となる。

3) 県医師会・厚生省のインフルエンザ流行情報との比較

まず始めに,群馬県医師会が行っている「インフルエンザ(インフルエンザ様疾患を含む)患者通報状況報告」(県医師会は,すでに1976年度から「流行性疾患患者通報情況報告」を行っており,厚生省の感染症サーベイランスが始められてから,前記のごとく名称が変わっている)の中から,前橋市分を抜粋して比較してみよう。

〔表8〕に年度別総届出患者数と,その中に含まれる小学生分について再掲し,総数に対する割合を%で示した。この「報告」の年齢階層区分は,「乳幼児」「小学生」「中学生」「高校生以上」となっているが,各年度の年齢階層別割合は〔図3〕のごとくである。どの年も,「高校生以上」が割合としてもっとも多く,次いで「小学生」「中学生」「乳幼児」の順であり,各流行期を通じて,そのパターンに大きな差はない。1980,1981年度は,12月から翌年の3月まで報告を求めているが,1982年度以降は,12月から翌年の2月で終了している。〔表8〕に示したのは,各月の総計である。

「1980.11〜81.3」の届出患者数が予想外に少ないのは,この項の始めに述べたごとく,厚生省の感染症サーべイランスが開始された時点で,県医師会の本事業は,一旦中止されまたすぐに再開されたという事情があったので,その影響があったのではないかと考えられる。その翌年も少ないが,これは3月のAH3N2型の流行が,多くの診療所ではインフルエンザとして把握されなかったからではないだろうか。しかし「1983.12〜84.2」のAH1N1型流行において,届出患者数が非常に少なかったのは,これは逆に,推定延欠席児童件数の補正値の方が実情に即していることを示していると考えられる。

総届出患者数に占める小学生の割合は,1980年度から4年目までは,25%前後に一定していたが,1985年のB型流行では,30%を越えた。これはこの時の爆発的な流行状況を反映しているとみるべきであろう。逆に,その翌年の割合が20%と低いのは,流行の衰退期に,学校は冬休みに入ってしまったことを反映していると考えられる。

この調査の届出患者数については,インフルエンザと普通の「かぜ」との鑑別診断の難しさにより,届出医療機関の診断基準に多少の偏差のあることは否定できない。しかし,この調査には市医師会員全員が参加していること,しかもメンバーには大きな異動はなく,経時的に一定の条件下で行われていること。また,この調査には,市内の国公立病院が参加していないが,これらの病院に受診するインフルエンザ患者の割合はそれほど大きいとは考えられないこと,などをもって,これが市内流行の指標としては,優れたものといえるであろう。

以上の検討を元に,小学校の流行状況は,市内流行の状況とよく平行し,市内流行の規模をよく反映していると考えてよいであろう。

次に,厚生省防疫情報による全国インフルエンザ様疾患発生数と比較してみよう。1980年度〜1985年度分について〔表9〕に示した。この数値は,全国の高校・小中学校・一部の幼稚園において,学級閉鎖の行われた際に,その直前の日の病欠者・発熱者をもってインフルエンザ様疾患として集計したものである。各県から週報として報告されたものの集計が,その流行期の発生数として発表される。すなわちこれは,わが国における,学校集団の流行規模を示すものであり,実は厚生省の場合も,これをもってわが国の流行規模の相対的指標としているわけである。

これを,前橋市の推定延欠席児童件数と比較して見ると,1980年度の値を1.0として見た場合,1981,1984,1985年度の流行規模は,全国の場合の方が約2倍くらい多いが,増減のパターンは両者よく似ている。

次いで同じく,厚生省による全国インフルエンザ様疾患発生数曲線と比較して見よう。前述の週報に基づいて,半対数グラフに描かれているので,前橋市の流行曲線も半対数グラフに措いて比較することとした。〔図4〕に示したごとく,各年度とも,流行時期,流行期間,流行規模の相対的関係,そして流行のパターンさえも,驚くほど似通っていることが分かるであろう。

すなわち,前橋市内小学校におけるインフルエンザ流行状況は,全国的に見た学校流行状況とよく一致しているということである。わが国は,全体として見ればインフルエンザワクチンの学校集団接種地域である(全体として見れば,接種率は決して高くはないが)。これと比較して,非接種地域である前橋市に,特別な流行状況が発生しているわけではないことが言えるであろう。

 
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