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B. 県内のワクチン非接種地域と接種地域の流行状況比較
前章において,ワクチン非接種地域である前橋市の流行状況について検討し,前橋市の流行が,非接種地域であるが故に特別の様相を示したという事実はない,ということを述べた。
次に知りたいことは,当然非接種地域である前橋市は,県内周辺の接種地域と比べて流行がより大きかったかどうか,ということである。われわれの判断の是非もそれにかかっているからである。しかし,前橋市程度の地域流行の相互比較に利用できる,公式の情報システムは得られない。ワクチンによる地域流行抑制効果に関する「よく計画された」調査といえば,外国の文献に頼らざるを得ないのが現状である。ましてや,学童に対する集団接種が,地域的流行抑制にどれほどの効果を示すのか,それを立証し,かつ対照的資料に用いうる報告も見つからない。
そこでわれわれは,身の回りで手に入る資料の分析と,われわれのできる限りの方法で収集した資料の分析を通じて,ワクチン非接種地域前橋市の相対的流行規模を明らかにしようと試みた。
1) 地域別インフルエンザ様疾患発生状況
群馬県医師会が行う「インフルエンザ様疾患サーベイランス報告」により,県南平野部にある前橋市を含め,高崎市,桐生市,伊勢崎市・佐波郡,太田市,県北山間部にある沼田市・利根郡,そして高崎市の西に接した非接種地域である安中市・碓氷郡の各医師会を選び,その届け出患者数を,各医師会が属する地域の人口10万対の患者数によって示し比較することにした。〔図5〕は,1982年度から1985年度にいたる患者数を,左側に非接種地域である前橋市と安中市・碓氷郡,右側に接種地域である5都市をまとめて示した。主たる流行株は図の左に示した通りである。グラフは全体としてその年の流行の規模を示しているが,当然のことながら地域差が認められる。だが,ワクチンの非接種地域と接種地域の間に,一定の差異を見いだすことは困難であろう。
もとより届出患者数のすべてがインフルエンザ患者とはいえない。しかし,インフルエンザの臨床的診断の難しさを考慮すれば,いたずらに厳密さを要求しても無意味であろう。医師による届出患者数は,国際的に信頼を得ている指標の一つである。
従って,この図から言えることは,学童に対する集団接種実施の有無は,地域内患者発生数に何ら大きな影響を与えていないということである。
2) 国保診療費から見たインフルエンザ流行
インフルエンザの流行は医療費にどのような影響を与えているか,インフルエンザワクチンを接種しているかどうかがそれに関係するのか,これについて,われわれに比較的容易に手に入りやすい国民健康保険の診療費統計を用いて検討した。
方法は,〔表10〕摘要欄に示したごとく,通常のインフルエンザ流行期の前にあたる9月〜11月と,インフルエンザの流行期を含む12月〜2月につき,非接種地域(前橋市と安中市の合計)と接種地域(高崎市,桐生市,伊勢崎市,太田市の合計)に分けて,診療件数,診療総点数,一件当たり点数を比較した。ただし1985年度は流行の中心が12月にあったので,8月〜10月と11月〜1月分について比較した。比較の方法としては,途中で老人保険法を含む保険制度の改定があったりしたので,先に述べた流行前と流行後との比を見ることにした。
〔図6〕は,その比を図示したものである。比が1.0であれば流行前期と流行期の件数や点数が変わらなかったことを意味する。それより大きければ増加,小さければ滅少を示す。図を見れば分かる通り,流行前期と流行期の間に有意の変動は認められない。かつ非接種地域と接種地域の間にも差は見られない。
以上の結果から,学童に対するインフルエンザワクチンの集団接種をやるかやらないかは,医療費の面においても大きな影響を与えていないことが分かった。
しかしこの結果について,われわれが意外に思ったことが二つある。その一つは,特に小児科の診療所などでは,インフルエンザの流行期に一致して,年の内で一番忙しい時期を迎えるのが常である。ところがこの統計で,例えば受診件数で見ると,比が1.0を僅かに上回るに過ぎない。すなわち受診者全体として見れば,たいした数ではないと言うことである。
二つ目は,老人保健法成立前の1982年の場合,どの比も1983年度以降に比べて押しなべて低いということである。これはどのような関係になっているかというと,老人保健法施行により,この対象者の受診件数が約30%減少した。従って,一般国保では流行期に平均約2%受診件数が増加するのに,老人保健法対象者すなわち70歳以上の人は,逆に約2%減少したということを意味する。インフルエンザの流行期には,老人受診者の足はむしろ遠のくのか。老人を含む年度は単年度なので,真の結論を出すには,今後の検討に待たなければならない。
いずれにせよ,インフルエンザワクチン接種を中止しても,医療費が余計に掛かる心配はなさそうである。
もっとも保険制度には,外にも政府管掌社会保険や,各種共済組合・企業別健康保険組合の保険などがあり,それぞれ被保険者・家族の年齢的,身体的,社会・経済的条件にはある程度の差異があり,それぞれインフルエンザ流行に際して,どのような影響を受けているのか,興味のあるところだが,今のところわれわれの手には負いかねる。
3) 死亡率曲線による比較
インフルエンザの流行にともない,慢性の呼吸器疾患や心疾患,リウマチ,糖尿病,腫瘍による死亡が増加することが知られている。直接の死因は,肺炎や心不全である場合が多く,したがって乳幼児には少なく,高齢者に著しく多い。これらの死亡は,超過死亡率の形で流行の指標として用いられている。超過死亡率は,インフルエンザの流行のなかった時期の月別死亡率から,年内各月における肺炎およびインフルエンザによる死亡率の期待値を計算する。この値をもとに期待死亡率曲線を描き,それに実際の死亡率曲線を重ねて見れば,期待値曲線を上回る部分として,超過死亡率を目の当たりに見ることができる。
しかし,われわれには,期待死亡率を求めるのに充分な死亡統計資料が得られないので,過去10年間の平均月別死亡率を基準にして,ワクチン接種中止前後の死亡率の変動状況を見ることにした。
〔図7〕は,群馬県,前橋市,高崎市の月別死亡率曲線を描いたものである。既述のごとく,高崎市は毎年接種率が80%を越える隣接市である。細い線で描かれた年毎に同じ波形の曲線が,平均死亡率曲線である。いずれの図においても波形に大きな差は認められない。太い線が実際の死亡率曲線だが,とくに前橋市において,ワクチン中止後の実際死亡率が,インフルエンザの流行期に一致して平均死亡率を大きく上回るような事実は認められない。すなわち,間接的にではあるが,学童の集団接種を止めたからといって,超過死亡が増加したとは考えられない。
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